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東京六大学史上最強 法政三羽ガラス裏面史

 東京六大学野球は戦前から“国民的スポーツ”として人気を集めてきた。1957年には長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の“立教三羽ガラス”と呼ばれる3人が活躍し、チーム初となる春秋連続優勝を達成したほか、大学日本一を果たすなど、東京六大学野球は大いに盛り上がっていた。
 当時の立教大・砂押邦信監督(故人)は、ナイター設備のない夜のグラウンドで石灰を塗ったボールを使う「月夜の1000本ノック」という伝説的な猛練習が有名だったが、その砂押監督と並ぶスパルタで知られていたのが、'65年に法政大学の監督に就任した松永怜一氏だった。

 就任前の松永氏は法政大学附属第一高校の監督を長く務めていた。同高の野球部にいた私や田淵幸一も、松永監督版「月夜のノック」の体験者だ。
 もっとも、田淵は当時から「プロ入り確実」と将来を期待される正捕手。同級生だった私は控えキャッチャーだった。
 高校時代から間近で見てきた田淵の圧倒的な才能は私に挫折感を味合わせたが、その一方では大きな希望も抱かせてくれた。自分は選手としてはどこかで上を目指すことを諦めることになるかもしれない。それでも私が大好きな野球の世界で、田淵という男がどこまで上にいけるのかを見てみたい――そんな想いも抱くようになっていた。

 1965年、田淵と私は共に法政大学へ入学、野球部に入部した。
 田淵は経済学部、私は文学部哲学科だ。とはいっても、勉強した記憶などほとんどない。私たちの生活は、どこまでいっても野球が中心だった。

 当時、法政大学野球部の合宿所(寮)は神奈川県川崎市中原区木月にあった。木造平屋建てで、あちこちにへこみがある廊下を歩くとミシミシと音がした。
 寮には中央の廊下を挟んで6畳の部屋が5室あった。一部屋に入れるのは5人で計25人。ベンチ入りする選手だけが寮に入ることを許された。廊下の一番奥がマネージャー室になっており、松永監督が着替えなどをする事務室兼用になっていた。

 部屋では、上級生が一番窓側横に布団を敷き、下級生は入口に足を向けて寝る。体格のいい若者ばかりのため、寝る体勢はいつもギリギリで足の踏み場もなくなる。夜中に上級生が共同便所に行くたび、寝ている下級生は顔や足を踏みつけられたものだ。
 野球部の上下関係は今とは比べ物にならないほど厳しく、4年生と3年生は「神様」、2年生は「天皇」で、1年生は便所や風呂を掃除する雑用係も兼任しなければならなかった。
 田淵の自宅は東京だったが、レギュラーに抜擢されたため、1年生からこの寮に入ることになった。下級生にとっては地獄のような環境だが、それでもベンチ入りメンバーになれたということのほうが、はるかに重要だった。

 この年、法政大野球部の監督が田丸仁士氏から松永氏に代わっている。その松永新監督は、法大一高時代の教え子でもある田淵をレギュラー捕手に抜擢した。
 田淵と私の同学年には、甲子園出場組で関西の有名高校から来た捕手が2人もいた。そのため、「あいつは松永さんが来たから寮(=ベンチ)に入れたんだ」と田淵を妬む者もいた。

 大阪の興國高校で4番を打っていたスラッガー・富田勝も、入学当初は田淵にいい感情を持っていなかった。残念ながら富田は一昨年5月に他界してしまったが、生前、よく私にこんな話をしていた。
 「モヤシのようなブチ(田淵)と出会って、『こんなひ弱なお坊っちゃまに負けられるか!』と思ったよ。ブチも先頭に立って人を引っ張るような強い性格ではなかったからな。でもあるとき、俺が練習を終わってからグラウンドを走っていると、後ろからブチがついてきたんだ。すぐヘバるだろうと思ったけど、最後までついてきた。高校時代にスパルタ練習の松永さんにしごかれたと聞いていたから、見かけよりスタミナがあることは分かった。それに、なんといってもバッティングを見て参った。俺も飛ばすことにはかなり自信があったが、あのリストアクションは天才だった」

 まだ寮に入ることができず、木月グラウンド近くの新丸子に借りた下宿から練習に通っていた富田だが、田淵の実力を認めると、こうも言っていた。
 「俺はケンカっ早いが、ブチは争い事が嫌いな性格だ。だからこれからは、俺が体を張ってブチを守るぞ!」

 そしてもう1人、広島県立廿日市高校から投手として法政大野球部に入部していた山本浩二。彼も、もがいていた。
 高校時代の浩二の評判を聞いた南海ホークスの鶴岡一人監督が、「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧めたというが、当時は富田と同じ一般野球部員でしかなく、無名で目立たなかった。浩二も寮には入れず、神奈川県にいた実兄の元から練習に通うというスタートだった。

 田淵は1年生の春から試合に使われ始めた。チームの内外からは、「松永監督は田淵をえこひいきしている」と言うバッシングの声が日に日に増しており、田淵本人にもそれとなく耳に入っていた。
 「監督に申し訳ない。早く結果を出さないと」
 田淵は焦りまくっていたが、春から秋の2シーズンで4本の本塁打を放ち、自らのバットで批判の声を打ち消してみせた。

 田淵は1年生で唯一、この年に開催された第6回アジア野球選手権大会の日本代表にも選ばれている。代表には早稲田大学の八木沢荘六(元ロッテ)、三輪田勝利(元阪急)、慶應義塾大学の広野功(元巨人)、明治大学の高田繁(元巨人)など、錚々たるメンバーが選ばれていたが、田淵は彼らに引けをとらない活躍を見せた。
 大会初戦、田淵は3回裏に回ってきた第2打席でカウント2-1からのカーブを叩いて特大のアーチを放ってみせた。推定飛距離145メートルの場外ホームランだ。
 試合が行われたフィリピンのマニラ・リサール球場には、あのベーブ・ルースと並んで、今でも「K・TABUCHI」の名前が刻まれている。
 後で聞いた話だが、この試合の前日、田淵は代表の先輩たちからしこたま酒を飲まされており、ひどい二日酔いで試合に臨んでいたそうだ。

 3年ほど前に、横浜DeNAの高田繁GMと話す機会があった。高田GMはこの遠征の記憶を懐かしそうに振り返りながら、こう話してくれた。
 「フィリピンに行く前に早稲田大学の安部球場で打撃練習をやったんだけど、田淵はレフトに張ってあった数十メートルはある高い金網を越える打球を何発も放り込んでいた。そんな打球は誰も打ったことがなかったようで、近所の住民にお叱りを受けていたよ(笑)。あの広いリサール球場で打ったアーチも凄かった。アイツは天才だ。田淵のホームランは美しかった」

 '66年の春、法政大学には新たに2人の有望投手が入部してきた。大分県立佐伯鶴城高校の山中正竹と、高知商業の江本孟紀だ。
 特待生としての推薦入学だった江本は、田淵と同じく1年生から合宿所入りしたエリートで、法政のエースとなることを期待されていた。

 もっとも、江本の“ひと言多い”性格は当時から変わっていない。高校時代の江本は部員が起こした不祥事によって、選抜甲子園出場('65年)を決めていたにもかかわらず辞退。同年夏も出場停止処分で参加すらできなかった。
 結局、甲子園出場の夢はかなわず、この裁定を下した日本高等学校野球連盟(高野連)への不満を、誰憚ることなく口にしていたが、当時からどんな権力者であろうと簡単に屈するような男ではなかった。
 そんな性格のため、江本は松永監督の方針にも再三にわたって反抗した。合宿所を飛び出し、同僚の捕手の自宅に閉じこもることもしばしばだった。

 松永監督はエースとして山中正竹を試合に起用することを決意する。バッテリーの関係を密にするため、合宿所入りした山中は田淵と同室になった。玄関を入ってすぐ左側がこのバッテリーの部屋だった。
 「田淵さんは私の思い通りに投げさせてくれました。後輩なのに、いつも『チビ、お前の好きなように投げろ』と言ってくれて…」
 山中は投手としては小柄で、仲間からは「チビ」のあだ名で呼ばれていた。
 一方の田淵も「チビは頭がいいから全部任せた。それだけバッティングに集中できた」と話している。
 田淵はプロ入り後も、最後までリード面では高い評価を得ることはできなかったが、それも大学時代に優秀過ぎる投手と組んだからなのかもしれない。

 昨年、野球殿堂入りを果たした山中は温厚な性格で、トガりまくっていた江本ともいい関係を築いていた。
 後に山中は「江本がいなかったら、48勝(東京六大学通算最多勝記録)もできませんでした。彼が投げてくれたおかげで、48勝もできたんです」と同級生ならではのユニークなほめ方をしていた。
 どういうことかというと、東京六大学は対戦カードが2勝先勝方式。2連勝すれば3戦目はない。つまり、江本が投げて試合に負け、3戦目までもつれ込む。山中の登板数も増え、勝ち星が稼げたというわけだ。
 ちなみに、歴代2位は江川卓(法政)の47勝だ。

 山中の入部は、山本浩二の野球人生も大きく変えることになった。山中と江本の加入によって、投手・山本浩二は必要なくなってしまったのだ。
 松永監督の頭には、以前から浩二の外野手転向というプランがあった。コンバートされた浩二は猛練習によって打撃の才能を開花させ、2年生時にクリーンナップの一角に抜擢され、レギュラーの座を掴んでいる。
 山中は今でもこんな冗談を口にする。
 「僕が浩二さんの野球人生を開花させたんですよ! 僕がいなかったら外野手転向はなかったんですから」

 この年の春、富田勝も念願の合宿所入りを果たしていた。当初は1番打者として起用されていたが、後に3番に昇格。こうしてクリーンナップに3番・富田、4番・田淵、5番・浩二という“法政三羽ガラス”が誕生し、投手には山中、江本…法政大学はいよいよ黄金時代を迎えることになる。
(次号へ続く)

【スポーツジャーナリスト:吉見健明】
1946年8月24日生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。野球一筋50年目。法政一高では田淵幸一と正捕手を争い、法政三羽ガラスとは同期で苦楽を共にした。著書に『ON対決初戦 工藤公康86球にこめた戦い!』(三省堂スポーツソフト)等がある。

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