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俺達のプロレスTHEレジェンド 第20R 日本オリジナルの獰猛なる狂虎〈タイガー・ジェット・シン〉

 日本のプロレス界における三大悪役外国人選手といえば、アブドーラ・ザ・ブッチャーにザ・シーク、そしてタイガー・ジェット・シンとなるだろう。いずれの選手も反則攻撃を主にするという点では共通するが、そんな中でもシンだけは“動ける”ことが一種の持ち味であった。
 一つひとつの攻撃がスピーディーでありながら、反面でグラウンドの攻防もできるから、試合に緩急があって単調にならない。激しく凶器攻撃を仕掛けたかと思えば、一転してコブラクローや首四の字固めでジックリと締め上げ、それが観客からするとさらにイラ立ちを募らされることになる。だからこそ、猪木との遺恨マッチは多大なる人気を博し、1973年からの9年間で都合37回にも及んだ。
 それでも観客に飽きられるどころか、試合を重ねるごとにヒートアップしていったのだから、よほど両者は手が合ったのだろう(ちなみに勝敗は猪木から見て23勝7敗7分け。猪木が大きく勝ち越しているが、その多くは反則裁定によるものである)。
 「猪木対シンで有名なのはアームブリーカーでの腕折り事件ですが('74年・大阪府立体育館)、後々にも猪木が初めてコーナートップからミサイルキックを放ったりというように('80年・日本武道館)、新境地が開かれていきました」(プロレス誌記者)

 シンが住居を構えるカナダにおいて、ビジネスで成功を収めていることは多くのプロレスファンの知るところだが、これも猪木との闘いにおける副産物だったようだ。
 「日本へ遠征するたびにケガでボロボロになって帰ってくるシンを見て、奥さんが“いつまでもプロレスができるとは限らないからサイドビジネスを始めてはどうか”と助言したのがきっかけだそうです」(同・記者)
 両者の闘いの激しさを伝えるエピソードであり、またシンに金銭面での余裕があったからこそ、日本の試合に向けてコンディションを整えられ、さらに過激な試合に臨めるという好循環にもつながった。

 もう一つ、シンが他の悪役レスラーと異なる点は、そのキャラクターが日本オリジナルであった点だ。アメリカやカナダにおいてはベビーフェースとして闘っていたが、シン本人の希望もあって日本ではヒールを務めることになり、それが大当たりとなった。
 初来日時、試合の予定がなく観戦するだけのハズのところを、打ち合わせもないままいきなり試合に乱入してみせるなど、もとよりヤル気が違っていた。買い物中の猪木夫妻を襲った『伊勢丹襲撃事件』にしても、そんなシンだからこそ成立し得たものであった。
 「今ではこの事件も“筋書きがあった”とミスター高橋などが証言していますが、それでも白昼に路上で凶行に及んだら、一般からの通報によって逮捕される危険性もあったわけです。衆人環視の中で形ばかりの暴行であったなら、かえって白眼視されることにもなったでしょう。シンが逮捕を恐れず、全力で襲撃をやり遂げたからこそ、このアングルが話題になったのです」(新日関係者)

 あまりにも猪木との闘いが印象的だったせいなのか、全日本への移籍後はどこかパッとしなかった。
 「馬場や鶴田など重厚感ある選手との対戦となると、シンの素早い動きが逆に軽く見えるというところはあったでしょう。また、初登場時にはサーベルではなく棍棒状の凶器を持って乱入するなど、全日側が意図的に新日色を消そうとしたのもマイナスでした」(前出の記者)

 トレードマークのサーベルは後に復活するが、同時期に移籍したスタン・ハンセンの人気もあって、シンの扱いは決して良いものではなかった。輪島大士のデビュー戦などは、反則攻撃で流血させることもなく、そのドンくさい攻めを受けて花を持たせるばかり(結果は両者反則)。年齢によるものか、新日時代と比べて明らかに腹が出るなど、コンディションも芳しくなかったようだ。
 しかし、そこで終わらないのがレジェンドである。その後、新日に復帰、さらにはインディーズへも出場するようになると、動きこそは全盛時に及ばなかったが、その分凶悪さを増し、大仁田厚、小川直也、曙、ボブ・サップらのビッグネームを、次々と血だるまにしていったのはさすがの一言であった。

〈タイガー・ジェット・シン〉
 1948年、インド出身。'73年、新日本プロレスに初来日。猪木との幾多の対決の後、'81年、全日プロへ移籍。'90年に新日プロに復帰し、以後FMW、IWAジャパン、ハッスルなどインディー団体のリングにも上がっている。

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