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俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈第1回K-1グランプリ決勝戦〉

 最後までリングに残ったのは、それまで日本では全く無名の2人だった。
 1993年4月30日、東京・代々木第一体育館で開催された第1回K-1グランプリ。“10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント”とサブタイトルのついたこの大会で、参戦した8名の中でも本命視されていたのは、まず8年間無敗を誇ったキック界の帝王モーリス・スミス。そのスミスを直近の試合で破った悪童ピーター・アーツ。そして日本期待の新星・佐竹雅昭の3選手であった。
 「当日のトーナメント表を見ると、同じブロックのスミスとアーツが準決勝でつぶし合い、そこを別ブロックで勝ち上がった佐竹が決勝で倒して優勝、というのが大会をプロデュースした石井和義館長(正道会館=当時)の描いた青写真だったのでしょう」(格闘技ライター)

 そんな“もくろみ”通り、第1試合で佐竹がKO勝利を飾る。相手のトッド・ヘイズは11戦11KOを誇る強豪ではあったが、その戦績はローキックを使わない試合でのもの。そこに付け入る隙があるのは事前から織り込み済みのことだった。
 続く佐竹の2回戦、ムエタイ最強とはいうものの体格でひと回り以上劣るチャンプア・ゲッソンリットなら佐竹で勝てるというのが大半の見方であったが、勝ち上がってきたのは予想に反してブランコ・シカティック。
 「正直なところ、シカティックはアーツが当時所属していたドージョー・チャクリキからのバーターで呼ばれたようなもので、もちろん前評判はアーツ以下。単なる員数合わせの選手だったのです」(同・ライター)

 プロフィール資料すらまともに用意されておらず、当時、実年齢37歳のところをテレビ中継では「34歳」と紹介されていたほど。チャンプア戦での勝利も、たまたま出合い頭に大振りのフックが当たっただけで、佐竹の勝利は揺るがないはずだった。
 ところがその乱暴に振り回すようなパンチが、佐竹の顔面をも撃ち抜く。
 どよめく会場。
 「後にPRIDEでイゴール・ボブチャンチンがKOの山を築いた必殺“ロシアン・フック”。シカティックのパンチもそれと同質のものだったのですが、当時はみんな、それがわからなかったから、佐竹に勝ってもなおフロック視されていました」(同)

 さらに波乱は続いた。アーツ、スミスの2強を、これまた無名のアーネスト・ホーストが破って決勝に勝ち上がってきたのだ。
 目玉選手がそろって敗退となると、どうしてもシラけたムードになりそうなものだが、しかしこの日の会場は違っていた。埋め尽くす超満員1万2000人の大歓声に決勝のリングが包まれる。

 この当時、コアな格闘技ファンたちは“真剣勝負”に飢えていた。かつて熱狂した第2次UWFも崩壊から3派に分かれ、さらに“実はUWFもプロレスだった”などと囁かれ始めていた。そんな眼前で次々と繰り広げられた予想外の展開。しかもKO連続のド迫力。真剣勝負ならではの醍醐味に観衆は酔いしれた。
 芸術的なハイキックでスミスを下したホーストか、超絶パンチのシカティックか。技とパワーがぶつかり合ったとき、一体どんな結末が訪れるのか−−。この日、会場に集まった全員が、格闘技の新ジャンルとして産声を上げたばかりの『K-1』に心躍らせていた。

 観客の興奮がMAXに達したところで決戦のゴングが鳴らされる。
 開始早々から前蹴りとローキックで攻勢に出るホースト。対するシカティックはジャブで相手との距離を測りつつ、眼光鋭く反撃の機会をうかがう。
 そうして1R終了直前、佐竹を葬ったのと同じ右フックが唸りを上げた。あおむけに倒れたホーストは、そのままピクリとも動かない…。

 衝撃的な結末への感嘆と、勝者シカティックへの称賛が場内に渦巻いた。
 「出場選手の豪華さ、試合内容、結果の意外性、そしてニュースターの誕生。そんな全てがそろった第1回K-1グランプリこそは、過去のさまざまな格闘技興行の中でもベスト1でしょう」(同)

 以後、K-1が10年以上にわたって格闘技ブームの主役となったのも、この奇跡の大会があったからこそであろう。

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