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豊臣秀吉にも認められた尾張旭の武将、毛受勝助

 愛知県尾張旭市内にある文化会館の敷地内に若き武将の像がある。その名は毛受勝助家照(めんじょうしょうすけいえてる)。 主君・柴田勝家の身代わりとして、兄と共に 滋賀県長浜市の賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで散った武将である。(討死にしたのは、3兄弟という説もある)

 全てのキッカケを作ったのはあの有名な『本能寺の変』 。秀吉が明智光秀を討ったことから、織田信長亡き後の権力者として秀吉は絶大な力を身に付けた。
 信長存命時から秀吉と強力なライバルだった柴田勝家だが、政治力と駆け引きには勝てず、次第に追い詰められていく。そして 遂に賤ヶ岳合戦で柴田勝家と羽柴秀吉が激突することになった。天へ昇る勢いの秀吉の軍勢は圧倒的に強く、敗走が続いた柴田勝家は、玉砕する覚悟で最期の戦いの場へ赴こうとしていた。しかし家臣の毛受勝助家照は、自分が敵を引き付けることを話し、主君・勝家は別の場で自刃するよう進言。柴田勝家は勝助の進言を受け入れ、戦場を後にした。勝助は秀吉の軍勢を引き付けるため、金御幣馬標を付けて再び最前線の場へ向かった。

 最後の戦いへ挑む覚悟を持った兄、茂左衛門と共に…。

 主君に殉じて散った毛受兄弟に対し、敵側でありながら心を打たれた秀吉は毛受兄弟の母妹へ扶持を与えたとされる。主君・柴田勝家は人質だった前田利家の娘を返し、 自らの三人娘を秀吉へ託して、奥方のお市と共に散った。(1583年)
 毛受兄弟が散った古戦場がある滋賀県では、明治9年に『毛受兄弟之墓』が建てられ、史跡保存会が供養を営んでいる。

 彼らの生きざまは戦国時代の象徴の1つといえる。毛受勝助家照(めんじょうしょうすけいえてる)は29歳という若さであった。

※参照『郷土史に秘められた勇者 毛受勝助』加藤正高著

※文科系忍者記者ドラゴン・ジョー(山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

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