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俺達のプロレスTHEレジェンド 第36R 選手としても凄かったAWAの帝王〈バーン・ガニア〉

 バーン・ガニアを“AWAの帝王”と呼ぶとき、多くの日本のファンが思い浮かべるのは、そのプロモーターとしての顔であろう。
 北米地区からカナダにかけてをテリトリーとし、一時はNWAにも比肩する大プロモーションとして隆盛を誇ったAWA。その基礎を作ったのは、紛れもなくガニアであった。

 では、レスラーとしてはどうだったか−−。初来日時には既に40代後半とすっかり全盛を過ぎていたこともあり、日本においての評価は決して高くない。最初が国際プロレスへの参戦だったことも、ファンからの印象を薄くしている。
 その後、AWAが国際から全日本プロレスへと提携先を変えても、ガニアは国際の吉原功社長との個人的な関係から単発的に国際へ参戦し、全日の常連外国人となることはなかった。
 「それでも、全日においてはジャンボ鶴田“試練の十番勝負”の初戦や、ジャイアント馬場“3000試合連続出場突破記念試合”の相手を務めています(両試合とも引き分け)。これは、馬場がいかにガニアを高く評価していたかの証拠でしょう」(プロレスライター)

 いずれも節目にあたる重要な試合であり、そこにガニアを起用した裏には“AWAのトップに対する配慮”という面もあっただろうが、それ以上に“ガニアのレスリング技量に対する信頼”があったことは想像に難くない。
 馬場のアメリカ修業時代には既にガニアはNWAを離脱してAWAを立ち上げていたため、その当時に直接の交流はなかったが(馬場の初渡米は1961年、AWA創設は'60年)、それでもアメリカにおけるガニアの実力や実績は見聞きしていたはずだ。

 あらためてガニアの来歴を見れば、鉄人ルー・テーズにも匹敵する大スターであったことがわかる。'48年にはレスリングのロンドン五輪代表に選ばれ(ちなみに同大会には日系レスラーのハロルド坂田も米代表として重量挙げで出場し、銀メダルを獲得している)、その前年にはアメリカンフットボールのNFLでプレーもした万能アスリート。五輪の翌年に、熱心なスカウトを受けてのプロレス界入りとなった。
 身長182センチと、当時の米国レスラーの規格からするとやや小柄ではあったが、すぐにテーズと並ぶメーンイベンターとして遇されることになる。
 「昔の試合映像を見ると“剛”のテーズに対して“柔”のガニア、といった印象です。流れるようなグラウンドの動きや下から突き上げるようなドロップキックは、よどみなく実に美しいものでした」(同ライター)

 そんな往年の面影は、50歳を過ぎてからの来日時にもなお、うかがえた。
 「すっかりハゲ上がったガニアの外見から、馬場との記念試合も最初こそは老レスラー同士の慣れ合いぐらいに思っていましたが、互いに動きが良くて見応えある試合になりましたからね」(同)

 とりわけ3本勝負の1本目を奪ったガニアの必殺技スリーパーホールドは、極めるまでの流れもスムーズで説得力十分。猪木が“魔性のスリーパー”を極め技として使い出す以前のことであり、当時の日本マット界では単なるつなぎ技とされていたこの技に、新たな息吹を与えることにもなった。
 馬場との試合のときには58歳。今年の時点で同年齢の日本人レスラーとなると小林邦明(引退)やスーパーストロングマシン(半引退)がこれにあたり、単純比較はできないものの、その年で王座戴冠していたガニアの壮健ぶりが際立つ。

 引退後はAWAの運営に専念するが、こちらは時代の流れに乗り切れず、WWF(現WWE)の隆盛に押される形で徐々に衰退していく。実子のグレッグ・ガニアも偉大な父の七光りから脱することはできず、AWA王座こそは獲得したものの、人気面からすると大成したとは言い難い。
 結局'91年にAWAは破綻し、ガニアも自己破産してしまった。しかしそうした中でも、ガニアは直弟子ともいえるブラッド・レイガンスのレスリングスクール、通称“レイガンス道場”においてトレーナー役を買って出るなど、新人育成を手掛けている。
 新日本プロレスのトップ外国人として活躍したスコット・ノートンなどもこの出身で、結果、日本マット界に多大な影響を残したのだった。

〈バーン・ガニア〉
 1923年、アメリカ出身。'49年デビュー。'60年にAWAを設立し以後選手兼オーナー兼プロモーターとして活躍。初来日は'70年の国際プロ。全日プロではG馬場の3000試合連続出場記念試合の相手を務めた。'81年引退。

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